友禅染
文化史13

ゆうぜんぞめ
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友禅染

 友禅染とは江戸時代に発達した,日本を代表する文様染です。江戸中期に宮崎友禅(みやざきゆうぜん)によって完成されたためこう呼ばれますが,その手法自体は江戸初期から存在していました。色の混合を防ぐために糊を用いるのが特徴で,そのため多彩で華麗な絵文様を描き出すことができます。

友禅染誕生以前

 寛永から正保(1624〜1647)頃に刊行された『毛吹草』(けふきぐさ)に見られる京都の染物は,鹿の子(かのこ)のような絞り染めを除くと,そのほとんどが模様のない一色の染物でした。ところがその後,茶屋染などの模様染が流行し,次第に華美なものが好まれるようになります。

 それに対して江戸幕府は,天和年間(1681〜84)に禁令を出し,金紗(きんしゃ)や刺繍,総絞りなど贅沢な衣裳は,着ることはおろか作ることさえ禁止してしまいます。

 そのため,刺繍や絞りなどを使わずに,色彩の鮮やかさで華麗さを演出する,新しい染物の創造が求められました。これが友禅染創造の遠因となります。

宮崎友禅の登場
右上に「ゆふせん」の文字ののれんが見え,中心の絵筆をとる僧形の人物が友禅と思われます。『人倫重宝記』

 宮崎友禅は天和から元禄(1681〜1704)にかけて活躍した絵師です。生没年はわかっていません。元文元(1736)年に,83才で金沢で没したという説がありますが,定かではありません。彼は,現在でいうデザイナーのような存在で,そのデザインブック(見本帳)である雛形本を何冊か出版しました。

 元禄5(1692)年,友禅自らが出版した雛形本『余勢(よせい)ひいなかた』の序には「洛東智恩院門前 扶桑扇工友禅」とあることから,友禅は知恩院門前に住んでいたと思われます。

 また,天和2(1682)年刊行の井原西鶴(いはらさいかく)『好色一代男』に「扇も十二本 祐善(ゆうぜん)が浮世絵」とあります。さらに,貞享3(1686)年刊行の『好色三代男』には「柳屋が下緒,ゆうぜん扇,音羽かるやき,今の世のはやり物」とあります。この頃友禅は,扇に絵を描く扇絵師をしており,その扇が大変な評判を得ていたことがわかります。

扇工から染工へ

 扇絵の意匠で注目された友禅は,小袖のデザインに進出します。貞享4(1687)年刊行の『女用訓蒙図彙』(おんなようきんもうずい)に

爰(ここ)に友禅と称する画法師ありけらし,一流を扇に書出しゝかば,貴賤の男女喜悦の眉うるはしく丹花の唇をほころばせり,これに依りて人の好める心をくみて,女郎小袖の模様をつくりて,ある呉服屋に与へぬ,それを亦もて興ずるよしを聞いて(後略)

とあります。同年刊行の衣裳雛形本『源氏ひながた』にも「扇のみか小袖にもはやる友禅染」と書かれていることから,友禅はこの頃染織界へ進出したといえるでしょう

デザイナー友禅
雛形本『都今様友禅ひいながた』

 貞享5(1688)年刊行の『都今様友禅ひいながた』は,衣裳の文様にとどまらず,風呂敷・扇・団扇・文箱(ふばこ)・書物の表紙など様々な物に対する友禅のデザインを集めたものです。このような総合的デザインブックは江戸時代を通じても他に例がなく,友禅のデザインに対して関心が高かったことがうかがえます。

 またその中で,友禅流行の原因を「古風の賤しからぬをふくみて,今様の香車なる物,数奇(すき)にかなひ」としています。古典的な和様美を残しながらも,当時の斬新で華やかなデザインを取り入れた点が,人々の心をつかんだというのです。

 代表的な文様としては,円の中に花をあしらった「花の丸」があげられます。これは友禅の創造したものではなく,中世からの有職文様(ゆうそくもんよう)の中に似たようなものが見られます。小袖という定型の中に,伝統の持つ上品さを取り入れた,マッチングのおもしろさが流行に結びついたものと思われます。このように,彼の才能は従来からあるものをアレンジし,構成し直すところで十分に発揮されたようです。

 円以外にも菱形や亀甲,扇などの幾何学模様の中に草花を散らす文様も多く見られます。こういった小さな区画の中に趣向を凝らすデザインは,もともと扇に絵を描いていた友禅にとっては力を発揮しやすい場であったことでしょう。

友禅染の推移

 一方で,元禄5(1692)年刊行の『女重宝記』(おんなちょうほうき)には「友禅染の丸尽くし,(中略)今みれば古めかしく初心なり」とあります。このことから,当時よりデザインの流行サイクルが早かったことがうかがえます。

 同時にこれは,小袖のデザインが友禅一辺倒だったわけではないことを示しますが,その後も新しい文様や技術を得て友禅染は生き残っていきます。

 18世紀半ば以降は,江戸風の「粋」が上方にも流行し,小袖のデザインも複雑なものから単純なものへ,色調も華やかなものから単色系へと変化していきました。

写し友禅の考案

 明治に入り化学染料(合成染料)が輸入され,友禅染の世界も大きく変化していきます。化学染料は湯に溶かせば直ちに染められ,糊に混ぜることも可能でした。その特性を利用して,明治10(1877)年頃に広瀬治助(ひろせじすけ,1822〜90)が染料を混ぜた写し糊を用いる写し友禅の技法を考案しました。これは,型紙を用いて写し糊を生地に置いていき,蒸して染料を定着させ,その後水洗いをして糊を落とすという技法です。

 治助は京都の生まれで,少年の頃より友禅業の備後屋に奉公し,のちにこれを継いだため,備治(ぶんじ)とも呼ばれました。もともとは手描友禅の名手として知られていましたが,明治初期に京都府が開設した舎密局(せいみきょく)に出入りし,化学染料の使用法を学びました。その後,堀川新三郎(ほりかわしんざぶろう,1851〜1914)のモスリン(薄地の毛織物)友禅の影響を受け,それを絹物に応用した写し友禅の技法を開発しました。

 この技法の開発により,今までの手描友禅に比べ工程が簡略化され,生産効率が大幅に上がりました。その結果,友禅染の大量生産が可能になり,大衆化への道が開けました。

 その後も,江戸時代から現代まで続く老舗「千總」(ちそう)の西村總左衛門(にしむらそうざえもん)によるビロード友禅(白ビロード地に友禅染を施したもの)の開発や,広岡伊兵衛(ひろおかいへえ)による無線友禅(糸目糊を置かない友禅)の発明などにより技術的にも大きな発展を遂げていきました。

日本画家の活躍

 写し友禅の考案は技術的に大きな意味を持っていますが,同時に意匠の面でも新たな展開が見られました。

 明治に入ると,それまでの類型的なものを脱した,新しい意匠が求められるようになりました。そこに登場したのが,明治維新で後援者を失った日本画壇の絵師たちです。幸野楳嶺(こうのばいれい)や今尾景年(いまおけいねん),岸竹堂(きしちくどう),竹内栖鳳(たけうちせいほう)らが,友禅染や西陣織の下絵を描いていました。草花や風景が写実的・絵画的に表されたデザインは,自由な発想に満ちた織物を生み出しました。

友禅流し
戦後の堀川での友禅流し
(内貴道雄氏所蔵)

 川の流水で糊を落とす友禅流しが始まったのは,明治10年代に入ってからです。写し友禅の技法が確立されたからであり,それ以降京都の風物詩の一つとなりました。友禅流しは鴨川だけでなく,桂川,堀川,白川,紙屋川などでも行われていました。

 戦後も桂川・堀川などで友禅流しは行われており,桂川では昭和40年頃まで行われていました。しかし昭和46年の水質汚濁防止法の施行により川では行えなくなり,友禅流しは,各工房が室内で人工水路を用いて行うものに変化していきました。

 現在では「友禅流しファンタジー」として,8月上旬の「鴨川納涼」のイベントの中で見ることができます。

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   歩く・見る

友禅苑 東山区林下町(りんかちょう)
宮崎友禅銅像
(友禅苑内)

 円山公園の北側,知恩院三門のすぐ南に宮崎友禅寓居跡があります。ここは友禅苑の名で庭園として整備されており,苑内には「友禅斎謝恩の碑」と,昭和29年に生誕300年を記念して作られた宮崎友禅の銅像があります。普段は非公開ですが,知恩院の夜間ライトアップに合わせて特別公開されることがあります。

京都伝統産業ふれあい館 左京区岡崎成勝寺町
(京都市勧業館「みやこめっせ」地下1階)

平成8年に開館した京都市勧業館「みやこめっせ」の地下1階に京都伝統産業ふれあい館があります。ここには友禅染を含む京都の様々な伝統工芸品を集めた常設展示場,職人技をビデオで視聴できる映像コーナー,情報検索コーナーや図書室などがあります。入館は無料です。

友禅美術館「古代友禅苑」 下京区高辻通猪熊西入

 江戸時代から現代までの友禅染のコレクションを展示する私立美術館です。友禅手作り教室のコーナーもあります。

しょうざん染織ギャラリー 北区衣笠鏡石町

 「しょうざん光悦芸術村」内の染織ギャラリーには,手描友禅・型友禅の制作工程の展示,ハンカチなどに摺り込む型友禅の体験コーナーなどがあります。

宮崎友禅の墓 石川県金沢市東山二丁目(龍國寺<りゅうこくじ>内)

 宮崎友禅の生没年は現在でもはっきりしませんが,大正時代に金沢市の龍國寺で,友禅の名が書かれた過去帳と墓石が発見されました。命日とされる4月17日には,境内で染色業者などを集めて「友禅祭り」が行われます。


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