銀閣寺(慈照寺)
文化史10

ぎんかくじ(じしょうじ)
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銀閣寺とは

銀閣と錦鏡池
 銀閣寺は正式には東山(とうざん)慈照寺(じしょうじ)といい,臨済宗(りんざいしゅう)相国寺派(しょうこくじは)に属する寺院で,左京区銀閣寺町にあります。

 当寺は室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ,1436〜90)が造立した東山殿(ひがしやまどの)全体を指しています。この東山殿内に建てられた二層楼閣(観音殿<かんのんでん>)を銀閣と称し,それが寺全体の象徴的な建物となったことから,慈照寺は銀閣寺と通称されるようになりました。

 創建当初,この観音殿には実際に銀箔を貼る計画があったともいわれますが,創建者の義政が建設途中に没したため,詳しいことはわかっていません。

 結果的に銀箔は貼られなかったものの,やがて江戸時代以降になると,室町幕府三代将軍足利義満(あしかがよしみつ,1358〜1408)の建てた鹿苑寺(ろくおんじ)の金閣(舎利殿<しゃりでん>)に対して,慈照寺の観音殿は銀閣と呼ばれるようになり,さらには寺そのものも銀閣寺と称されるにいたったのです。

 銀閣寺の建つこの地は,本来,平安時代中頃から天台宗の名刹浄土寺(じょうどじ)があったところでした。しかし室町時代に起こった応仁・文明の乱(1467〜77)のために浄土寺は焼失し,さらに義政がこの地を好んだことから,文明14(1482)年,義政は寺跡に宿望の山荘(東山殿)造営を行い,翌15年に移り住みました。

 義政は庭園を中心とした山荘を建てることを意図し,自身が起居する常御所(つねのごしょ)をはじめ,西指庵(せいしあん,禅室)・起然亭・東求堂(とうぐどう,持仏堂)・会所(かいしょ)・泉殿など多くの殿舎や楼閣を東山殿内に設けました。そして,さらに観音殿(銀閣)の造営を開始しましたが,延徳2(1490)年正月,義政はその完成を見ることなく65年の生涯を閉じることになりました。その間,東山殿を中心として東山文化が開花したことはあまりにも有名です。

義政没後の銀閣寺

 義政の没後,東山殿は遺命にしたがって禅寺に改められ,義政の法号慈照院喜山道慶にちなんで慈照院と命名されました。ついで延徳3(1491)年3月には名目上の開山として禅僧夢窓疎石(むそうそせき,故人)を招き,慈照寺と改められました。

 その後,足利将軍家の衰退とともに寺運は衰えていきますが,それに追い打ちをかけたのが,天文19(1550)年11月,三好長慶(みよしながよし)と十三代将軍足利義輝(あしかがよしてる)とが当地附近で戦った天文の兵火でした。

 江戸時代に入ると,銀閣寺は徳川家康より35石の寺領を与えられ,方丈・観音殿(銀閣)・東求堂・西指庵などの建設や修理を行い,荒廃していた庭園の修築にもつとめました。現在の庭園も,大半がこのときに修築されたものです。

 また明治時代には,廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響を受けて一時逼迫しましたが,住持の努力によって東求堂・方丈・観音殿などを修理しました。また東求堂の北側に義政時代の遺構弄清亭(ろうせいてい)を再興し,さらに庭園にも手を加えて,見事に復興をとげました。

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銀閣

 池の西北角にある観音殿で,東山殿内で最後に建てられ,また創建当初からの遺構を現在に伝える建物です。宝形造(ほうぎょうづくり),柿葺(こけらぶき)の二重の楼閣で,屋根には鳳凰が飾られています。金閣と同様,このような楼閣建築を邸内につくるのは足利将軍邸のしきたりだったと考えられています。

 1階は心空殿(しんくうでん)と呼ばれる書院造,2階は潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれる禅宗様(唐様)で観音像が安置されています。

江戸時代に数度改修され,大正2(1913)年には大規模な解体修理が行われました。そして,昭和26年6月,戦後最初の国宝指定時に,銀閣は国宝に指定されました。なお平成6年には,銀閣寺は世界文化遺産に登録されています。

庭園
銀沙灘・向月台と銀閣。手前に広がるのが銀沙灘,銀閣の前に盛られているのが向月台です。

 北・東・南の三方を山に囲まれたこの庭園は,義政が数多く築造した庭園のなかで唯一,現在に残されている遺構です。義政が最も好んでいた西芳寺(さいほうじ,苔寺<こけでら>)庭園を模倣してつくられ,彼が東山殿に移住した後,みずから指揮して,さまざまな場所から植木や庭石を移植させ,作庭したといいます。

 この庭園は,本来,現在の庭園より一段高い場所にあったと推定される漱蘚亭(そうせんてい)跡(昭和6年に発掘)の庭と,現在の境内中心部の庭からなる上下二段の形式を取っています。漱蘚亭跡の庭の石組・泉・水流の跡をはじめ,東求堂正面の白鶴島(はっかくとう)や仙桂橋(せんけいきょう)・仙袖橋(せんしゅうきょう)などは義政創建当初の様子を残しているといわれています。

 一方,東求堂正面の座禅石・大内石をはじめ,銀閣正面の池泉(錦鏡池<きんきょうち>)周辺,すなわち境内の庭園の大半は,江戸時代の元和元(1615)年・寛永16(1639)年に修復されたものです。

 また,中国の西湖の風景を模倣したといわれる本堂(方丈)前の向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんしゃだん)は,安土桃山時代頃までには既につくられていたともいわれますが,江戸時代の修復の際,さらに拡大してつくり替えられたようです。この向月台は東山に昇る月をこの上に座って待ったといい,また銀沙灘は月の光を反射させるためにつくられたといわれています。

 現在,この庭園は国の特別史跡・特別名勝に指定されています。

方丈(本堂)

 慈照寺の本堂となる建物で,江戸時代初期,寛永年間(1624〜44)の建築といわれています。本尊釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を安置します。また,内部には江戸時代の俳人・画家与謝蕪村(よさぶそん,1716〜83)と画家池大雅(いけのたいが,1723〜76)の共作による襖絵があり,これは平成4年,京都市指定文化財となっています。

東求堂(とうぐどう)
東求堂外観

 東山殿創建当初から存在した義政の持仏堂で,元々は阿弥陀三尊を本尊とした阿弥陀堂でした。造りは一重の入母屋造(いりもやづくり),屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で,昭和39〜40年の修理以前は柿葺(こけらぶき)でした。

 現在,東求堂は方丈の東に位置していますが,創建当初は銀閣(観音殿)の近くにあり,後に現在地へそのままの形で移動されたと考えられています。

 堂内には義政像が安置され,南には仏間,東北隅には義政の書斎である同仁斎(どうじんさい)があります。

 同仁斎は,4畳半で,机の役割を担う一間の付書院(つけしょいん)と物を収納する半間の違棚(ちがいだな)が北側に設けられています。住宅遺構として最も古く,書院造が完成する以前の状態を示すものとして貴重な建物です。

 この東求堂は昭和26年6月,戦後最初の国宝指定時に国宝として指定され,同39年に解体修理が行われました。

 また,東求堂と本堂の間には,四方の側面に市松模様が彫られた銀閣寺型(袈裟型)手水鉢が置かれています。

義政の墓と香火所(こうかしょ) 上京区相国寺門前町
足利義政墓

 室町時代,相国寺の塔頭が足利家歴代将軍の位牌所であったことから,義政の墓は現在,相国寺惣墓地にあり,焼香を行うための場所である香火所も塔頭慈照院にあります。

 義政死去の後,その遺骨は相国寺内の別の塔頭であった大智院に安置されていました。しかし,義政の香火所をつとめる寺は院名を慈照院と変更しなければならなかったため,大智院の反対にあいました。その結果,別の塔頭である大徳院が彼の香火所として慈照院と名を改め,遺骨もそこに移されて現在にいたっています。

銀閣寺境内図

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