歌舞練場跡記念碑

SI058

かぶれんじょうあときねんひ
石碑(0021108)石碑周辺(0021112)

 島原は,京都で唯一の幕府公認の遊里。島原歌舞練場は,当初は島原女紅場といい,芸娼妓に刺繍・裁縫などを教え,遊里を離れても仕事ができることを目指して,明治6年(1873)に設立された教育・勧業施設である。その後,教育内容に変化があったが,昭和2年(1927)にこの地に新築・移転し,本格的な劇場施設となった。歌舞練場では温習会や餅搗きなどの行事が行われていたが,平成8年(1996)に解体された。この石標は,島原歌舞練場の跡を示すものである。

所在地下京区西新屋敷中之町
位置座標
建立年2001年
建立者島原伝統保存会
寸 法高172×幅105×奥行17cm
碑 文
[西]
   歌舞練場跡記念碑
   島原歌舞練場は、明治六年(一八七三)上之町に島原女紅場【ふりかな「ニヨコウバ」】として開設され、青柳踊【ふりかな「アオヤギオドリ」】や」
温習会が上演されていたが、同十四年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その後景」
気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果」
していた。しかし、当初の歌舞練場は狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であっ」
たため、昭和二年(一九二七)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築」
された。それ以来、この歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲」
の練習発表の場として毎年温習会が開催された。戦後の同二十二年以後は島原貸席お茶」
屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成八年(一九九六)同組合の解散に伴い、」
歌舞練場を解体し、歌舞練場百二十余年の歴史を閉じることとなった。」
   また天保年間の島原鳥瞰図によると、当地はもと稲荷社が鎮座していたことから、この」
大榎【ふりかな「オオエノキ」】には、歌舞練場解体時までその根元に祠が祀られていた。約二百年の樹齢を誇るがご」
とく、樹高は十五米幹周りも二米となり、今なお神木としての威厳を留めている。」
   ここに記念碑を建立し、花街の象徴であった歌舞練場と古木の由来を刻するもの」
である。
                  平成十三年十一月吉日            島原伝統保存会
      宝暦の   むかしの夢は見は見つれ      勇
            夜半の投節   聴くよしもなし
                  吉井勇(歌人 一八八六〜一九六〇)
調 査2004年12月3日
備 考

位置図
位置図

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