大村益次郎卿遭難碑 碑文の大意
大村兵部大輔は,実名を永敏,通称を蔵六といい,のちに通称を益次郎と改めた。周防国吉敷郡鋳銭司村で文化7(1825)年3月10日に生まれた。長じて世界中の軍事学の書を研究して奥義を得た。安政3(1856)年,江戸幕府講武所の教授に任じられ,文久元年に長州藩の兵学教授に転じた。慶応2(1866)年に長州藩は幕府軍と戦端を開き,大村氏は長州兵を率い連戦連勝し,その名声は大いにあがった。明治元(1868)年に官軍が北海道や東北で戦うと,戦略を定め功績をあげた。同2年に兵部大輔に任命され,陸海軍の制度と徴兵制度の基礎を定めた。8月に入京し,木屋町に宿所を定め兵学寮及び機器局の設立計画を練っていたところ,9月4日に刺客に襲われ,傷のため11月5日に没した。享年47。11月17日に朝廷からその功績により従三位がさずけられ,大正8年には従二位に昇った。