西陣名技碑 碑文の大意
 帝室技芸員伊達弥助氏の没後,織工等がわたし(筆者北垣国道)に面会していわく,西陣は古くから織物を業とし,織機の音が数百年来とだえたことがない。しかし多くは伝来の技術を継ぐだけである。過去をしのぐ織物を作り,西陣の名を内外に轟かせた伊達氏のような例はいまだかつてない。伊達さんは明治23年,明治天皇の名古屋行幸に際し,特に召されて御宴に列した。ついで帝室技芸員に任命された。まことに西陣の栄誉である。そこで伊達氏を顕彰する文章を書いていただき(これを石碑に彫り),この栄誉を未来に伝えたいと。
 わたしは答えていわく,伊達氏の技は天下に明らかである。聞くところでは大隈重信伯爵夫人は伊達氏が織った藕絲観音40余を関東の著名寺院に納め,皇后の御覧に供したところ,皇后は感心して御製の歌を賜ったと。また伊達氏が獲得した国内外の賞牌は数えきれないほどである。これらのことは伊達氏の技術のすばらしさを証するものであり,このうえ拙文の必要があろうかと。
 織工等いわく,それはそのとおりだが,まずはその技の源流を知っていただきたい,と略歴を見せた。
 略歴にいわく,伊達氏は幼名徳松。堀川天神北街に生まれ,綸子絹織を家業とした。五世前の先祖某がはじめて華紋を織りだした。父も弥助と称し巧者として名高い。伊達氏は若いころから祖先の業をさらに盛んにしようと思い,辻礼輔という人に画法と化学を学んだ。派手なことを嫌う性格で,絢爛豪華が極まれば枯淡な味わいに戻るのが常である。西欧でも次第に枯淡な味が好まれるようになるだろう。外国に製品を輸出しようとする者はここのところを知っていなければならない。西洋の機械で作った製品などは目に心地よいだけのものだと言っていた。氏は寝食を忘れ手織の技術を極め日本古来の織物を改良し「伊達錆織」という織物を作り出した。錆織というのはその古色をおのずから発揮するという意味である。
 伊達氏は自然物と人工物とを問わず見る目があり,草花から生物,美術品に至るまで目に触れるものを研究してやまなかった。第三回内国勧業博覧会や宮内省臨時全国宝物取調局の設立,また京都市工業物産会などでは公平な審査官をつとめ,西陣の名声が大いに揚がったのはまったく伊達氏のおかげである。先年京都一帯が洪水の被害を受け,西陣機業が甚大な損害をこうむった時,伊達氏は救援のため工場を設立し人々を救った。そのため恩恵を受けた人はこの工場を「救助機(はた)」と呼び徳とした。
 氏が没したとき,知るも知らぬも誰彼となく悲しんだ。わたしも嘆きに耐えず思わず口ばしったことに,この人は技術が道に通じるということを体現した人である,氏の業績は西陣だけでなく国家のために貢献したことでもあると。
 わたしはいま京都美術協会会長を席を汚しているから,文章がまずいからといって執筆を辞退するわけにはいかない。あえて碑文を書く次第である。