伏見義民小林勘次碑 碑文の大意
 かつて伏見の町に義民がいた。その名を小林勘次という。もともと丹波の人で,伏見に移転し薪炭業を営んでいた。元和年中に角倉某と木村某が淀川奉行であったが,淀川を通行する船の通行料を値上げし,商人や旅行者はたいへん困った。伏見の町人はなんども値下げを角倉・木村両人に願い出たが,そのたびに却下された。
 勘次は不正を座視することができず,江戸へ下り幕府に訴えた。幕府は審査の結果,勘次の値下げの要望を認可し,朱印状を与えてその証とした。ところが勘次は江戸からの帰途,東海道鞠子宿で急死した。元和4年4月26日のことである。勘次はこういうこともあろうかと予測し,朱印状を魚の腹の中に隠し,別人に持たせて伏見へ無事届くようにした。
 勘次は死んだが,淀川の通行料はもとの通りに下げられ,めでたく結末を迎えた。今なお伏見の町人は勘次を追慕して石碑を建てようと,薪炭商共進組合の組合員がわたし(筆者西尾為忠)に碑文を依頼した。そこで梗概を以上のとおり記すものである。勘次の死は270年以上前のことで,その家は絶えているが,その行いは今も人を感動させる。