恋塚寺碑 碑文の大意
 京都の南の下鳥羽に源渡の妻で貞節な女性(袈裟御前)の墓がある。文覚はその女性の首を葬り,その場所に寺を開き冥福を祈り,墓に恋塚と名づけ寺の名称にもした。後の世の人が碑を建て,渡夫妻と文覚の像を安置しおまつりしていた。
 鳥羽伏見の戦で寺は兵火に焼かれ廃墟と化し,碑もまた行方しれずになってしまった。時の住職は小さなお堂を建てて仮ずまいしていた。現在の住職龍成上人は学才を備えたりっぱな僧侶である。上人は古跡が滅亡し,恋塚を弔う場所がなくなることを心配し,募金をして恋塚を修理し,寺の旧地に壮麗な堂舎を新築した。
 小畑勇山(いさみやま)という人は碑を建て古跡探訪の便りにしようと思い,大井子清を介しわたし(加藤豊山)に碑文を依頼してきた。彼が言うことには「そもそも袈裟御前は母と夫に災いが及ぶことを恐れ,節義を守り死んだ。実に壮烈なことである。文覚が夫を殺し妻を奪おうとしたことはにくむべき所業であるが,そのあと悔悟し髪を切って僧となったので多少の救いがある。文覚は平家が皇室をないがしろにして勝手気ままにすることを憤り,源頼朝公を説得して討伐させた。平家が滅亡したあと平維盛の託を受けその子六代を育てたことは,文覚が義を重んじることのあらわれである。こういうことは後の世にきちんと伝えなければ成らない」。
 今の世では人の考えも大きく変り,義理を捨て利益を追求する傾向がある。婦人の徳もまた昔に比べ下落した。識者の嘆くところである。こんにち龍成上人と勇山により貞節な女性の古跡が保存され,世の女性が袈裟御前を追慕することが可能になった。世の道徳に貢献するところが大である。わたしは上人と勇山の事業を讃え,また子清の言を尊重し碑文を作った。袈裟御前のことは歴史の書に詳しいから碑文には省いた。
 勇山という人は通称を岩次郎という。伏見の人である。正しいことを好み,むかしの任侠の徒の風格を持つ人である。