漏世公子及寿芳夫人遷墓碑 碑文の大意
 漏世公子の名は国松,右大臣豊臣秀頼公の子である。生母は成田氏。大坂夏の陣で大坂城が陥落し,秀頼公が没した時漏世公子はやっと八歳であった。世話係の田中六郎左衛門および乳母と大坂城から脱出した。伏見に潜伏したが徳川家康に捕らえられ,乳母は自分の子だといつわったが許されず,京都の六条河原で六郎左衛門といっしょに処刑された。元和元年5月23日のことであった。寿芳夫人は国松の遺骸をもらいうけ京都の誓願寺に葬った。法名は漏世院雲山智西と付けられた。  寿芳夫人は名は龍子。京極高吉の娘である。美しくしとやかな人がらで,豊臣秀吉公に寵愛された。寛永11年9月1日に逝去。法名を寿芳院殿月晃盛久と付けられ,漏世公子の墓の隣に葬られた。その遺志によるものであろう。豊臣家の滅亡にあたり秀吉恩顧の大名はみな恩義を忘れ一身の利益を求め,旧恩をかえりみる者はいなかった。しかし寿芳夫人は女性の身で徳川家の力に屈せず,礼遇をもって公子に尽した。まことに義を貫いた者というべきであろう。  明治維新後,(新京極が開かれ)商人が墓のまわりに集まってきた。わたし(筆者京極高徳)は墓地が狭く俗塵にまみれ法要も行われがたく,また墓に無礼の行為が行われるのではないかと心配し,官の許可を受け東山豊国廟内に移そうと思い,京都の内貴甚三郎氏に事業の監督を依頼した。内貴氏は義に篤い人で,常に漏世公子が幼くして世を去ったことを悲しみ,また寿芳夫人の節義を尊敬している人物だったので喜んで承知し力を尽くしてくれた。
 このたび辛亥(明治44年)10月4日遷墓式を挙行した。これで両人の霊は安住の所を得て,安心して法事を行うことができ,無礼に遭う恐れもなくなった。遷墓の経緯を石に刻し墓のかたわらに建てるものである。