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「子どもはこんなにも苦しんでいる」ストップ!虐待
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被虐待児童について

泣いているサルのイラスト虐待は子どもの心にどのような傷を負わせるのでしょうか。 虐待を受けたことのない人は、それがどういうことなのか想像することは難しいと思います。 虐待を受けた体験を文章として表現できる人も少ないのです。虐待を受けた人の話は大部分が混乱した断片的な情報です。多くの場合、長い治療を経て、そのような断片がつなぎ合わされ、虐待を受けた体験の全貌が姿を現します。

●身体的虐待 ●性的虐待 ●心理的虐待
●養育の拒否や放置 ●虐待を受けたことのある人が子育てする苦しみ

(以下のメッセージは赤城高原ホスピタルホームページより許可を得て転載しました。)

◆身体的虐待◆

父は酒は飲まないけど短気で切れやすく、一旦怒り出すと手がつけられなくなる暴力男でした。2才年下の妹は要領が悪くて、いつも暴力被害を受けていました。妹が3,4才頃には縄で縛り、手の甲に電気ショックを与えていました。24才の今でもその傷が両手の甲に残っています。そんな暴力で妹が泣き喚くと包丁を顔の近くに投げつけたりしていました。暴力は妹が失神するまで続きました。
妹が20才代に自殺未遂を繰り返すようになったのは、そのことが関係していると思います。

(摂食障害+薬物・アルコール依存症+解離性障害の妹を心配する姉)

卓球もバドミントンもソフトボールもダメです。打つ動作の入っているスポーツは好きになれません。
母はヒステリックになると、バドミントンのラケットで、私と5才年下の妹をあざができるほどたたきました。一度狂った母は、自然に止まるまでしばらくは怒りが収まりませんでした。泣いても叫んでも止められませんでした。妹が2才の時、母が妹の背中をラケットで、バシッバシッと打っていた姿を今でも時々思い出します。かわいそうな妹は数日間、寝たままで起きられませんでした。その時、私は怖くてその場を逃げ出しました。たとえ止めることはできなくても、母を制止すべきだったと今でも後悔しています。

(30才、摂食障害女性、妹は薬物乱用)

小学2年生頃だったと思います。算数の点数が悪く、60点でした。私が土下座をして謝ったけど、お母さんは私の頭をスリッパのまま足で踏みつけました。何度も、何度も。「生まなきゃよかった」「死んでしまえ」と怒鳴りながら。でも、悪いのは私、悪いことをして罰を受けるのは当たり前です。お母さんは悪くありません。お母さんのこと、すごく好きなんだけど、一緒にいてくれるとうれしいんだけど、気がつくと冷汗をいっぱいかいていて…。

(18才、解離性精神障害+自傷行為+アルコール乱用の女性。入院2日目の発言)

父はアルコール依存症で、母や子どもたちに暴力をふるっていました。私は情緒不安定で対人恐怖、不登校のまま高校を卒業しました。結婚してからアルコールを飲むようになりました。気がついたら、父と同じように酔って子どもをなぐっていました。自己嫌悪でトイレにこもって酒を飲み続けるようになり、夫に連れられ受診、入院しました。

(28才、アルコール症の主婦) 

子どものころから、家族の話題は成績と学歴のことばかりでした。両親のものさしはただひとつ、学歴だけでした。父は公立の一流大学を出たことだけが取り柄の公務員。母の言うなりでした。私が中学1年の時、最低でも90点は取ると約束させられたテスト、70点だったら、母は怒り狂って私を殴りました。泣きながら顔を洗っている私の後ろからなおも母が頭を殴り、足を蹴り上げました。 成人した私が、そのことで母に抗議しても母は全く聞く耳を持ちません。姉と私と二人の摂食障害者がいるのに、父も母もまだわかろうとしません。カウンセラーにも平気で「姉の治療の時に家族教室には出た。昔のことを掘り返して家族を責めてどうなる。大体、娘たちは被害者意識が強すぎる。うちには虐待なんか無かった。私だって我慢してきた。私こそ被害者だ」と言うのです。


◆性的虐待◆

お父さんを殺してやりたいと思う一方で、お父さんも病気だったんだ、そのうえお母さんにかまってもらえず、かわいそうな人だったんだと思ったりもするのです。お父さんを憎めない私を愚かだなと思います。そうすると私がもっと賢ければあんなことを避けられたのに、と自分を責めてしまいます。私がその時は幼かったということは分かります。でも今度は、幼い私にあんなひどいことをしたのに、お父さんを憎めない私を愚かだなと思います。自分に「ばか」と怒鳴りたくなります。

(26才、摂食障害)

幼児期から小学校卒業時まで実父による性虐待を受けていました。高校の時、母親に話したけど、まともに取り上げてくれませんでした。両親に両足をもぎ取られた気分です。父親の性虐待で片足をもぎ取られ、母親の拒絶で残った片足を失いました。

(摂食障害+アルコール依存症+覚せい剤乱用+万引盗癖+売春+自傷行為+自殺行為+解離症状、23才、女性)

母が再婚して、半年もしないうちに、義父からの性虐待が始まりました。母がパートに出かけている昼間、不登校で引きこもっている私の部屋に義父がニヤニヤしながら入ってきて黙って体に触り始めます。私は恐怖で頭がボーとして、体が硬直して声も出なくなります。義父は胸や下腹部を触りました。義父の虐待は私の自傷行為がひどくなって、両腕と左足と乳房が傷だらけになるまで、1年半続きました。義父の目の前で自傷をするようになって、やっと解放されました。

(18才、女性)

私が幼稚園頃から、父は子どもの前でポルノビデオを見続けていました。母は何とかそれを止めさせようとしましたが、父に怒鳴られるだけでした。私は「気にしなくて良いよ」と笑っていました。私は、家では母親思いの優しい娘でした。近所でも学校でも評判の「良い子」でした。でもその一方で、私は15才から、援助交際をしていました。もちろん実質は売春です。両親とも気がつきませんでした。相手はほぼ父の年代の男性でした。

(21才、アルコール・シンナー乱用+摂食障害)

父は、私がお風呂に入っていると必ず覗きに来ました。そればかりでなく「なぜこんなに遅くまで風呂に入っているんだ」というような難癖をつけて、裸の私を風呂からつまみだしました。これは私が中学を卒業するまで続きました。母は母で、私が中学2年生の時、私を素っ裸にして、玄関から追い出しました。玄関の外はすぐにバス通りです。実際その時、バスが1台通りました。やっとの思いで裏口から家にもぐりこみ、自室に隠れていました。両親は反抗的な娘のしつけをしたんだと言っています。そのことを思い出すとパニックになるので、最近までなるべく考えないようにしていました。今は、思い出すと怒りのコントロールができなくなります。

(22才、解離性精神障害+自傷行為+摂食障害)

カミソリで手首を切って、自分にも赤い血が流れているのを確認するとほっとします。人って、見かけだけでは分からない。二番目のお父さんだって、一緒に住み始めて半年位は優しくてすてきな男性に見えたもの。それから2年間、お父さんは中学生の私の体をおもちゃにしました。お母さんが言うように、黙っていた私がいけないのです。あんなことを許した私だって、人間の皮をかぶった化物かもしれません。どうして外見だけから人間だと言えるでしょう。知らないうちに緑色の血に変わっているかもしれないでしょう。

(17才、自傷行為+解離性精神障害)

◆心理的虐待◆

父はアルコール依存症+ギャンブル依存症でした。私が小学生頃から、パチンコ屋で玉を盗んで警察に捕まったりしていました。小学校5年の時、父が断酒して、家族団欒のお正月を迎えました。父が3千円のお年玉をくれました。やっと父がまともになった。これからはおウチのことを友達に話せると思いました。全額を貯金して、先生と友達に自慢して話しました。1ヵ月後、預金通帳ごと、父に盗まれました。幼稚園の頃から貯めていたお金です。8万円あったはずです。結局返してもらえませんでした。そのとき以来、私は誰も信用しないことにしました。

母は、不仲の父と一緒にいるのを避けるために、休日には、小学生の私を連れて、1日中街中を歩きまわっていました。いつも帰宅は真夜中でした。とても疲れてしまいました。私はそれが嫌でたまらなかったけれど、母に誘われると嫌と言えなくて、いつでも喜んでいるフリをしていました。今から考えると、両親に振り回されていたのですが、当時は、それが考えられる唯一の生き残りの手段でした。


◆養育の拒否や放置◆

父の怒りの爆発で家族の行事は必ずめちゃくちゃになりました。無事に終わった記憶がありません。私が小学2年、姉が小学4年生の時のことです。珍しく家族で2泊旅行に行きました。観光地の湖を見てからロッジに帰る途中、車の中で私と姉がちょっとけんかをした途端、父が急ブレーキをかけ車を止めました。私たち二人を道端に置いたまま、父と母は行ってしまいました。ロッジの名前も分かりません。姉が自分も泣きながら、私の手を引いて、日暮れ時の道を歩きました。2時間ばかり歩いたところで、通りかかった地元の親切な叔母さんが声をかけてくれました。でも姉が両親をかばって、置き去りにされたと言わないものだから、要領を得ず、とうとう警察騒ぎになりました。どうしてロッジにたどり着けたのか記憶にありません。真夜中まで両親は私たちを探していませんでした。姉も私も両親も、悪いのは子どもたちだとずっと思ってきました。


◆虐待を受けたことのある人が子育てする苦しみ◆

3才から12才まで義父から虐待を受けていました。「半殺しって知ってるか、死なない程度にすることだ」「お前は口で言ってもわからないのだから、半殺しにしてやる」と言われてベルトで身体中を殴られたり、ベランダの手すりに逆さ吊りにされたりしました。殺してはくれなくて、あくまで「半殺し」でした。他人にはバレないように、洋服で隠れる部分だけを痛めつけるのです。だから見えない部分はいつも全身アザだらけでした。義父は薄笑いを浮かべ、「今日はどれにするかな? 選ばせてやろうか?」などと言いながら、毎日ベルトを選んでいました。

身を切り裂かれるような痛みに飛び上がって逃げようとしても、腕をつかまれてどうすることもできません。そういう時には、天井がグルグル回って気が遠くなりました。声にはなりませんでしたが、「死んじゃえばもう痛くないのに…」、「お母さん助けて」と、もうろうとした意識の中で叫んでいました。そういう時、母はいつも背中を向けて家事をこなし、私を見ようとはしませんでした。その時に私を助けたら、自分の命まで奪われると思ったからだと母は言います。そんな母も義父から毎晩のようにこぶしで殴られていたので、いつも顔が腫れ上がっていました。義父はまた、しばしば私を全裸にして目の前に立たせ、その姿を眺めながらお酒を飲んでいました。
泣いている女の子のイラスト

私は、自分が悪い子だからお仕置きされても仕方がなかったのだとずっと思っていました。母がやっとの思いで離婚して、義父と離れて生活するようになっても、母が義父の悪口を言うと私は「仕方ないよ、お父さんも私にどう接していいかわからなかったんだよ」と答えていました。私は親思いの物分りのいい子でした。そうやって自分を納得させるしかなかったのかもしれません。でも私が心底から義父を許し、自分の人生に納得していた訳ではないことは、結婚後に思い知らされることになりました。

男性恐怖症の私でも、「この人なら大丈夫!」と思える男性と出会い、好きになって結婚しました。義父とは正反対のとても優しい夫です。そして女の子が生まれ、何不自由ない幸せな家庭を手に入れました。ところが、私の心の奥深くに隠れていた幼児期虐待の後遺症がある日姿を現し、私の幸せを破壊し始めました。私が虐待を受け始めた年齢に長女が達した頃です。誰にも負けないくらい優しい夫。かわいい子ども。それは私がよくわかっているはずなのに。やっとつかんだ幸せな家庭のはずなのに。

長女が3才になった頃、叱っても言うことを聞かない時、「私の幼い頃は口答えも許されなかったのに、この子はどうして…?」と思ってしまい、感情がコントロールできなくなったのです。叩いてしまうこともしばしばありました。泣いている長女を見ると本当に自分が情けなくなりました。思い切り叩く訳ではないけれど、暴力の怖さや影響力は自分がよくわかっているはずなのに、と思うのです。長女の泣き顔は、私の幼い頃のトラウマと重なりました。

私の恐怖や怒りは夫にも向かいました。仕事から疲れて帰ってきた夫が少しでも鋭い目つきになると、私は物凄い恐怖感でいっぱいになり、激しい動悸に襲われました。気がつくと、私は怒り狂って自分の腕に噛み付いたり、髪の毛をむしったりしていました。

長女に続いて長男が生まれましたが、私は子育てにすっかり自信をなくしてしまいました。私は母親失格ではないか、この子たちと離れた方がよいのじゃないかと思うようになりました。自分でコントロールできない自分の心。荒れ狂う私の姿を見て、夫も「離婚」という言葉を口にするようになりました。深刻な家庭の危機がやって来ました。

義父による暴力や虐待の恐怖から逃れ十年以上も後に、大好きな人と結婚して、子どもを産んだ今になって、後遺症が出てくるとは、なんと恐ろしいことでしょう。義父に対して、「おまえのせいだ。私の家族まで苦しめるのか。私はまだ苦しまなきゃいけないのか」と殺してやりたい気持ちになりました。だけど今さらどうすることもできません。

しかしそんな私でも夫は諦めませんでした。夫は辛抱強く私を支えてくれました。夫は私の心の傷を理解しようと懸命です。虐待を受けたこともない夫なのに。そんな人に私の気持ちが分かるはずがないのに。

夫は私を受け止めようと必死です。その気持ちが痛いほどわかります。私はずっと愛情をもらえないまま成長しました。だから心の中にぽっかりと穴が開いているのです。夫はそういう私の心の隙間を愛情で少しずつ埋めてくれました。

子どもに対する私の対応も、夫がいつもフォローしてくれているおかげで、少しずつですが変わってきました。長女に私の幼い頃を重ねる気持ちが薄れてきました。今でも大声で怒鳴ってしまう事は時々ありますが、子どもに接する自分の態度をいちいち責めていてはダメなんだと思うようになりました。最近は、叱った後は子どもをギュッと抱きしめてあげるように努めています。それは私が一番してほしかった事です。私は子どもに対しても自分に対してもだんだん優しくなりました。

夫には感謝の気持ちでいっぱいです。結婚して6年が過ぎ、やっと私も普通の人間らしくなってきました。世界一優しい夫のおかげです。髪をむしる癖もなくなってきました。生きていて良かったと思えるようになりました。私にもだんだんわかってきました。私が悪いわけではなくて、虐待をする人間が普通じゃないんだ。世の中にはひどい人間もいるけど、その分いい人間もいる。それに、自分を責めてばかりいたらいつまでも前に進めない。いつまでも義父に振り回されてたまるか!私はもう虐待をするような人間に負けたくありません。これ以上、子どもも夫も苦しめたくないです。

虐待被害者の方々の気持ちが私にはよく分かります。きっとみんな、死んだ方が楽だと思っているはずです。自分が幸せになれるなんて思ってないかもしれません。でも私は自分の体験から言えます。みんな絶対幸せになれるから大丈夫だってこと分かってほしいです。自分を傷つけるようなことをしてほしくないです。生きていればきっといいことがある。生きていることのすばらしさを知ってほしい。

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