伏見稲荷大社
全国に約3万社ともいわれる稲荷神社の総本宮。東山三十六峰最南端の稲荷山の麓に鎮座する伏見稲荷大社は、和銅4年(711)2月初午の日に、秦伊呂具が稲荷山の三ヶ峰に稲荷の神をお祀りしたことに始まると伝える。今は“商売繁盛の神”として信仰を集めているが、その起源は農耕神で『山城国風土記』には、伊呂具が餅を的にして矢を放ったところ、餅が白鳥になって山上に飛び去り、降り立ったところの山の峰に稲が生えたことから「イナリ」という社名になったという。本殿は、応仁の乱後の明和8年の造営で、後に豊臣秀吉によって修復されたが、このほか秀吉は、天正16年母の病気平癒を祈願して楼門を寄進している。本殿や楼門の前には、玉や鍵などをくわえた狐の像が置かれており、狐は稲荷大神の眷属(お使い)として信仰されてきた。稲荷山の参道に並ぶ万余の朱色の鳥居は、全国から奉納されたもので、特に奥宮から奥社奉拝所に至る鳥居は『千本鳥居』と呼ばれている。また、稲荷山には参拝者が奉納した約1万基もの『お塚』がある。本殿参拝後、稲荷山の各峰を参拝することを『お山する』といい、これは平安時代から盛んで『枕草子』や『蜻蛉日記』にも記されている。
奥社奉拝所
本殿の東側にある千本鳥居を抜けた、通称「命婦谷」にあるのが奥社奉拝所で、一般には『奥の院』の名で知られている。ここは山下からお山の神々を遥拝するところで、稲荷山三ケ峰はちょうどこの社殿の背後に位置する。明応の遷宮記に社殿の記録があり、創建の古さがしのばれる。奉拝所社殿の横には「おもかる石」と、「後醍醐天皇の歌碑」がある。「おもかる石」は石灯篭の前で願い事を唱え、頭部の石を持ち上げ、軽く感じると願いが叶えられる、という願い事の成就の可否を試すものとして知られている。
伏見神宝神社
「神宝(かんだから)」という聞きなれない言葉であるが「鏡・剣・玉」以外に「比礼(ひれ)」(魚の鰭のようにひらひらとした呪具)を加えた十種(とくさ)の神宝を社名の縁起とする。他の神社の「けがれを祓うこと」に対し「威力の触れること」を信仰の心とする。これは天照大神を御祭神とすることからも、日の出の勢いのエネルギーを讃歌するものである。また境内には、かぐや姫と宇多乃君(歌を交わされた帝)日継の御子と月の精霊とのロマンに因む「宇多乃君かぐや姫愛染碑」がある。
ランプ小屋
JR奈良線稲荷駅ホーム脇にある赤レンガ造りの建造物で、明治13年開通の旧東海道本線稲荷駅の名残である。JR奈良線稲荷駅は、明治12年わが国9番目の駅として開業したが、元来京都・大津間の旧東海道本線の駅で、大正10年に東山トンネルが完成するまで日本の動脈として使用されていた。ランプ小屋は、鉄道省のランプの油倉庫として使われていたもので、現存する旧国鉄最古の建造物である。現在は、当時車内照明に使われていた石油ランプ等が保存されている。見学のご予約につきましてはお客様センターにお電話下さい。(0570-00-2486)
摂取院
慶長13年(1608)に建立された浄土宗のお寺。地蔵堂に祀られる本尊は、平安時代末期に造られた寄木造りの腹帯地蔵(地蔵菩薩坐像)である。当初、江戸時代の製作と考えられていたが、平成2年の修理において、体内から墨書の銘文が3種類発見され、1番古いものは平安時代末期の製作と判明し、仏教美術史上の貴重な資料発見とあって注目を浴びた。
ぬりこべ地蔵
「京都市伏見区ぬりこべ地蔵様」で郵便が届く有名なお地蔵さん。伏見稲荷大社と石峰寺の間の墓地にあり、高さ1mの石像の地蔵菩薩で「歯痛を治す地蔵」として信仰を集めている。名前の由来は「痛みを塗りこめる」また、「土で塗りこめた壁のお堂に祀られていたため」とも言われているが、もとは、京都府警察学校の付近にあったものが、廃仏毀釈の難を逃れて現地に移されたと言われている。歯痛止めをお願いし、お堂の前に奉納されているぬり箸を持ち帰り、痛みが直ればその箸は川へ流して、お礼に新しい箸を奉納する慣わしがある。歯に限らず、健康を願う参拝者も多く、地蔵の前の祈願石に触った手で患部をさするとご利益があるといわれている。毎年、6月4日の「虫歯予防デー」には、深草稲荷保勝会が法要を営み、参列者に歯ブラシを配っている。
石峰寺
平安時代の武将多田満仲が、摂津多田郷に建てた石峰寺が起こりである。のち本尊の薬師如来が五条坂東に祀られていたところ、宝永年間(1704〜11)宇治の萬福寺六世千呆(せんがい)により創建された黄檗宗の寺。創建時は大寺であったが2度火災にあい客殿・庫裡が創建当初の面影を伝えている。参道の石段を昇って行くと、黄檗宗特有の丹塗り龍宮造りの総門がある。ここに「高着眼」と書かれた即非(黄檗の三筆の一人)の額がかかっている。中門を入ると江戸中期の画家伊藤若冲の墓「斗米庵若冲居士墓」と筆塚(貫名海屋撰文)がある。若冲は洛中錦小路の青物問屋に生まれ、17年間家業についた後弟に譲った。そして画に没頭し、また相国寺の大典禅師に帰依して禅に傾倒した。驚くほど緻密な細部描写と華麗な彩色の動植物を描いた。
天明の大火(1788)の後、当寺に庵を結んで七世密山の協賛を得て本堂の裏山に、釈迦の降誕から涅槃(ねはん)までの一生を主題として釈迦如来像を中心とし、十大弟子・五百羅漢・禽獣鳥魚などを配した石仏群を造りあげた。各像は若冲が下絵を描き石工に彫らせた。風雪によって丸味をおびた素朴で虚飾のない石仏の表情は人々に親しまれ続けて来た。
瑞光寺
元政庵の名で親しまれてきた日蓮宗の古寺。僧、漢詩人、歌人の元政上人(1623〜68)が明暦元年(1655)この地に草庵を結んだのが起こり。上人は俗姓石井、元政は名。13歳で彦根藩主井伊直孝に仕えたが26歳で退いて出家。妙顕寺の日豊について修行し33歳の時からここに住んだ。母をむかえて孝養を尽くしきびしく戒律を守り、学問、詩歌にも精進し深草上人と呼ばれてその風を慕って多くの人が訪れるようになった。上人は仏典の註釈、仏法を説く書、「草山和歌集」など多くの著述もものにしている。寛文元年(1661)井伊家の奉納で本堂が建立され瑞光寺となった。同8年老母が亡くなると上人も2ヵ月後に亡くなった。遺言によって墓は小さな塚に竹3本を植えただけの簡素なもの。(上人墓地へはJR奈良線の地下通路を行く。)本堂は総茅葺、本尊は釈迦如来、山門、鐘楼がよく当時の面影を伝えている。多くの遺墨と蔵書が残されていて毎年3月18日の「元政忌」に一部が公開される。
霊光寺
境内には立本寺二十一世を務めた日審上人の廟所や江戸時代初期に活躍した将棋の初代名人大橋宗桂と幕末の棋聖天野宗歩の駒をかたどった墓がある。また、前の参道を挟み北側には、「日像荼毘処」の碑がある。団体での参拝はご遠慮下さい。
宝塔寺
東山三十六峰、南端、七面山の西南麓にある。寺の起源は平安時代と古く、関白藤原基経の発願により、藤原時平が藤原氏の菩提寺として創建した真言律宗極楽寺が前身となる。当時の極楽寺は、稲荷山の南に続く丘陵地一帯を寺域とする大寺であったが、鎌倉期には一時衰退する。鎌倉後期の徳治2年(1307)、時の住職良桂律師が京都で日蓮宗の布教活動を行っていた日像上人と法論を闘わせ上人の説法に感服し、日像の弟子となって宗派も日蓮宗に改め、宝塔寺とした。寺号の由来は日像が書いた法華題目の塔を廟所に建てたことによる。当時の極楽寺を偲ばせる「伽藍石」が総門(重文・室町中期)左前に残されている。総門をくぐり、左右に塔頭が配された参道を進む。更に、進むと仁王門がある。左右に金剛像を配し、天井に牡丹の花が色鮮やかに描かれている、そこををくぐると正面に本堂(重文・江戸初期)が目の前に迫る。慶長13年(1608)の創建で入母屋造、七間四方、向拝三間の日蓮宗本堂では京都最古のものである。堂内には本尊の釈迦如来と十界曼荼羅の額、左右に日蓮、日像の両木像を安置する。また、本堂右手(南側)の多宝塔(重文・室町後期)は京都市内では最古のもので屋根は行基葺きで、境内ではひときわ存在感がある。宝塔寺の前身の極楽寺は、源氏物語の三十三帖「藤裏葉」に登場し、源氏の息子「夕霧」と「雲居雁」との恋が成就しました。
七面宮
宝塔寺本堂脇から昭宣堂(極楽寺開基の藤原基経を祀る)、日像上人廟を経て緩やかな石段を登りつめると七面宮がある。七面山中腹にある七面宮はもと宝塔寺の鎮守社で法華保護の吉祥天である七面大明神(七面天女)を祀る。この七面大明神像は、大仏師青木居士が彫り、霊験もあらたかなので尊崇者が寛文6年(1666)に元政上人(瑞光寺住職)と協力して奉納したものである。また、社殿の左(西)側には妙見堂なども祀られている。
完宗院(かんしゅういん)
昭和39年(1964)徳永大完が中山身語正宗(なかやましんごしょうしゅう)の末寺 真瀧山(しんろうざん) 完宗院として創建した。ご本尊は中山不動尊。境内には大きなしだれ桜があり、その奥に優しいまなざしの母子観音がある。
十二帝陵
この付近に13世紀頃、後深草天皇勅願の真宗院という寺があり、崩御後この法華堂に納骨された。後に伏見、後伏見、後光巌、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成と各天皇の納骨が行われた。この間後光巌天皇のとき上京にあった持明院の持仏堂の安楽行院をここに移し法華堂としたこともあった。いわゆる持明院統(北朝系)の十二帝の御陵であり、ここに御陵が営まれたことは、伏見が持明院統の皇室領としていかに重要であったかを示している。その後豊臣、徳川期には一時衰微したが、明治39年に現在の形に整備された。祀られているのは時代的には南北朝に分立した頃の天皇から、近世の始まりといわれる秀吉の聚楽第への行幸で知られる後陽成天皇迄、300余年にまたがる12名の天皇方々である。その中には日本書道史上有数の能書家として知られる92代伏見天皇や、99代(南朝4代)後亀山天皇から三種の神器を譲り受け、南北朝が統一した天皇として知られる100代後小松天皇がおられる。これらの天皇の御陵印は祭られている天皇の数が多いため単に「深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)」となっている。ここから今上天皇につながっている。
嘉祥時
嘉祥4年(851)深草の仁明天皇陵の近くに創建された年号寺。文徳天皇が父(仁明天皇)の菩提を弔う為、清涼殿を移して建立した。開山は真言宗の真雅僧都。寺域も広大で、今の善福寺から仁明陵近くまであった。しかし平安末期には、安楽行院の支院となり天台宗に属したが衰え、応仁の乱で焼失し壊滅した。その名を伝える現在の嘉祥寺は、寛文2年(1662)空心律師が、安楽行院の旧蹟に再建したもので、旧地はそれよりも東南になる。その再建時に、付近の井戸から出てきたという大聖歓喜天は「深草聖天」と呼ばれ国内最古と伝わり、開運招福や商売繁盛の信仰がある。また大きい石塔は安楽行院にあったものと伝わる。
真宗院(しんじゅいん)
根本山、浄土宗西山深草派の寺院。宝治年間(1247〜1249)後深草天皇の帰依を受けて円空上人が、現在地より少し西南に「真宗院」(浄土の真宗)の寺号を賜わり建立した。円空上人は、法然(浄土宗の開祖)の直弟子証空(西山派の祖)に教えを師事し、遠望される西山の夕日が、日想観に至高の場としてこの土地を選んだ。ここを根本道場に、のち誓願寺の住持となって宗義を弘めた。北朝で、持明院統の祖である後深草天皇は、ここの法華堂に遺骨を安置(十二帝陵の最初)されたと伝わる。しかし応仁の乱で衰微、江戸期に再興される。本堂は大正期に焼失のち再建。真宗院山に創健者の円空上人廟がある。その参道西側の墓地に、「日観亭跡」の石碑があり、夕日時の西山遠望は、必見。また山脇東洋一族の墓がある。東洋は宝歴4年(1754)我国最初の人体解剖を行い、それを『蔵志』に著した。その横に墓のある父、法眼玄心(はるなか)は、後水尾天皇の主治医で相談相手でもあった。また天明の義民一揆では、伏見の住民文殊九助らが、江戸幕府への直訴をこの寺で会合し、決定したところでもある。周囲に田園風景がのこる素朴なお寺である。
茶碗子
石峰寺石段下の近く、野手町の地蔵堂の下、農家の野菜洗いの水になっていた。昔、都に住む茶人が、いつものように従者に宇治川の水(天下の三名水の一つ、宇治橋三の間から汲む水)を汲んでくるように命じた。従者が、この付近まで水を持って帰って来たが、あやまってこぼしてしまった。しかたなくここの水を持ち帰ったところ茶人は、水の味を見抜き、叱るどころか宇治川の水よりも良いと言われ、この茶碗子の水をそれからは茶の湯に用いたという。