みやけはちまんじんじゃほうのういくじ・せいじんぎれいかんれんえま |
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三宅八幡神社奉納育児・成人儀礼関連絵馬 |
子供の疳の虫封じをはじめとする産育習俗、および十三参りなどの成人儀礼に関連した絵馬で、総点数133点。育児・成人習俗というテーマでまとまっている点が本絵馬群の特徴だが、なかでも幕末から明治30年代にかけて奉納された、疳の虫封じのお礼参りの参詣行列を描く絵馬群がよくまとまっている。描かれる人数はまちまちであるが、最多のものは739人が描き分けられており、各人物それぞれに個人名が記された付箋がつけられている。また、服装や子供たちの遊びの様子などが克明に描き分けられており、時代性や地域性が窺える好資料である。 |
くたのさんそんせいかつようぐ |
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久多の山村生活用具 |
京都市の最北端に位置する久多地区は、近江、丹波に境を接し、若さ街道沿いの山間部に開けた土地で、中世には久多荘と称する荘園村落であった。久多の山村生活用具は、そうした古くから続いた生活文化を示すもので、紡績関係、農作業関係といった生産用具および製品の他、宮座行事で使用される道具類など多岐にわたる。 |
やせかまぶろ |
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八瀬かまぶろ |
土石で作られた窯を利用した蒸し風呂の一種。壬申の乱で大海人皇子が背に矢を受けた際、窯風呂に入って傷を癒したという、八瀬の地名伝承ともかかる。『言経卿記』の文禄4年(1595)4月4日条にみえるのが初見であるが、すでに近世初期、療養目的の湯治場として広く知られた存在であったことが確認できる。江戸時代に入るとさらに発展し、正徳5年(1715)当時には16軒を数えた。現存するかまぶろの製作年代については、明治28年に京都で行なわれた内国勧業博覧会を記念して復元作製された2基のうちの1基である可能性が高い。 |
さいごくじゅんれいさんじゅうさんどぎょうじゃかいこくしゅぎょうようぐ(おせた) |
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西国巡礼三十三度行者廻国修行用具(オセタ) |
西国三十三所を廻る民間の行者が背負った笈。オセタはセタ元、あるいは本山などといわれる寺院が管理しており、廻国修行を志す者は、こうした寺院に願い出てオセタを借り出し、西国三十三所を三十三回巡ることで満願となった。現時点で確認できている本山は6箇所で、それぞれに組が形成され、各々4〜5基のオセタを有していた。京都では、東山区の称名寺が大仏組の本山として、かつては5基のオセタを有し、常時5人の廻国修行者を抱えていたが、現存するのはこの2基のみである。オセタには熊野権現本地仏や西国三十三所の本尊の他、宿帳などを納めた。 |
すうじんふねほこ・じゅうにとうそうしょくひん |
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崇仁船鉾・十二灯装飾品 |
崇仁船鉾・十二灯は,下京区崇仁地区より新日吉神社の祭日に曳き出される祭屋台である。同地域では現在,船鉾2基,地元でだんじりと称する十二灯1基を所有している。これらの祭屋台のうち2基の船鉾は,昭和30年代後半以降中絶していたものを,十二灯は第二次世界大戦中以降中絶していたものを地元有志の熱意により,かつて使用されていた木彫や金工品などを利用して復原したものである。 |
おおふねほこそうしょくひん |
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大船鉾装飾品 |
元治元年(1864年)の大火による焼失まで,祇園祭後祭の山鉾の最後尾を巡行していた大船鉾を飾っていた装飾品である。大船鉾は再興することなく現在に至っているが,焼け残った遺品類は,下京区四条町により大切に保管されてきた。鉾を装飾した懸装品をはじめ,神功皇后御神体人形とその周辺の調度品など121点が,幕末以前の制作年代と考えられるものである。懸装品の質は高く,綴織,紋織,刺繍などの技法を使った,前懸,後懸,水引,舵などが残されている。一部に改変跡などもみられるものの,ほとんどが作制当初の状態で保存されている。 |
ふしみのしゅぞうようぐ |
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伏見の酒造用具 |
伏見の酒造業は、昭和30年代後半からの機械化の導入により、従来の酒造用具は急速に姿を消している。そうしたなか月桂冠株式会社が所有する酒造用具は、酒造業の近代化以前のものを中心としており、桶、樽つくり用具や、印ごも等の出荷用具を含めてほぼ酒造工程のすべてに及び、そう点数は6,120点である。これらは、かつて伏見で行なわれていた酒造りの特色と変遷を知るうえで貴重な資料である。 |
いなりまつりだし「てんぐさかき」けんそうひん |
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稲荷祭山車「天狗榊」懸装品 |
もともと伏見稲荷大社の氏子域である,下京区花屋町通西洞院西入山川町持ちの「天狗榊」山車に懸けられていた懸装品。「天狗榊」山車は、稲荷祭の神幸祭のおりに、各町々から出ていたお迎え提灯の山車のひとつと考えられ、明治24年8月に、同儀礼の廃絶に伴い,伏見稲荷大社に献納され,現在まで残された。祭礼用の懸装品にふさわしく、婦女子、老人等の人物を、吉兆を示す動物やデザインで彩るという構成をとっているとともに、作品自体の質も高く、江戸中後期の織技術の高さを示している。 |