京都市指定・登録文化財−建造物


いまくまのじんじゃほんでん
新熊野神社本殿
法住寺殿の鎮守として永暦元年(1160)に勧請された。現本殿は寛文13年(1673)の造営。入母屋造・妻入で奥行3間のうち手前1間分を外陣,その奥を内陣とする。熊野本宮証誠殿と同じ形式で全国的に希少。熊野本宮より古く熊野社系社殿の古制をよく伝える。

たきおじんじゃ
瀧尾神社
現在の社殿は豪商下村家の援助で天保10年(1839)から翌11年に造営された。本殿は貴船神社奥院旧殿を移築したもので,その前に幣殿・拝所・東西廊が並ぶ。これらが屋根を錯綜させながら,独特の社殿景観を形成している。豊富な彫刻装飾は京都市内では珍しい。

わかみやはちまんぐうしゃほんでん
若宮八幡宮社本殿
現本殿は承応3年(1654)の造営と伝える。三間社流造の正面庇を取り込んで前室とし,更にその前に向拝を付けた前室付きの流造である。屋根は銅板葺だが,当初は檜皮葺であった。前室付き流造本殿は,滋賀県下に多く見られるものの京都では珍しい形式である。

ほうかんじ
法観寺
2棟並列する堂のうち,西寄りの太子堂は寛文3年(1663)に門前の町人の寄進で建てられた。東寄りの薬師堂も17世紀後半の建築とみられる。共に宝形造・本瓦葺で正面3間・側面2間である。いずれも当初から境内仏堂として計画・造営されたものと考えられる。

ようげんいん
養源院
淀君が父浅井長政を弔うために創建し,元和7年(1621)に淀君の妹徳川秀忠夫人が再興した。本堂は伏見城の殿舎を移したと伝え,室中の襖や広縁の杉戸は俵屋宗達,仏壇の唐獅子図は狩野山楽の筆による。護摩堂・鐘楼・表門・中門・通用門も江戸前期の建物である。

ちょうらくかん
長楽館
J.M.ガーディナーの設計により明治42年(1908)に竣工した実業家村井吉兵衞の別荘。1・2階ともに中央広間の周囲に洋室が配される。一方3階は和室で,豪華な書院造風である。内部の凝った意匠は見事で規模も大きく明治時代の和洋折衷住宅の代表例である。

しもさとけじゅうたく
下里家住宅
当住宅は明治28年(1895)にお茶屋として建てられた。内部は土間に沿って居室6室を2列に配するが,室境に半間幅の廊下を通して客の動線を確保し,さらに2階の客室も中央の板間から直接出入りできるようにしている。また正面外観は1階は出格子・平格子を装置し,通り庇を付けて一般の町家と変わらないが,2階は正面を客室とすることから建ちが高く,また間口いっぱいに窓を開いて手すりを張り出し,軒下にはすだれを吊って,お茶屋としての趣をよく残している。

あわたじんじゃ
粟田神社
粟田神社は旧粟田口村の産土神である。本殿・幣殿は文化2年(1805)6月に焼失後,文政6年(1823)に再建された。建物は,三間社流造の本殿の前に桁行2間・梁行3間で正面に方1間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ,また流造の屋根の前に入母屋造・妻入の屋根,さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており,江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。拝殿は,元禄16年(1703)に建てられたと伝える入母屋造・檜皮葺の建物である。

そんしょういんほんどう
尊勝院本堂
尊勝院は天台宗の寺院で,文祿年間(1592-96)に豊臣秀吉によって本堂が再建されたという。大正4年(1915)に本堂が現在地へ移された。本堂は桁行3間・梁行4間の規模で正面1間通りを外陣,奥寄りの方3間を内陣とし,内陣には中央に四天柱を立てて,背面に仏壇を設ける。内陣は常行三昧堂の形式である一間四面堂の構成で建てられ,また極彩色が施されて桃山時代の趣が良く残されている。

ちょうらくじほんどう
長楽寺本堂
時宗の寺院。現在の本堂は寛文6年(1666)に造営された愛宕郡西賀茂村の正伝寺仏殿を明治23年(1890)に購入して移築したものである。建物は桁行3間・梁行3間で,本瓦葺の屋根をのせ,四周に裳階(もこし)が付く。全体としては当初材が比較的よく残っており,京都市内では数少ない本格的な小規模禅宗仏殿の遺構として貴重である。

やましなじんじゃほんでん
山科神社本殿
当社は江戸時代には西岩屋大明神,一の宮と称されていた。本殿は三間社流造・檜皮葺の建物である。建築年代を明らかにする史料はないが,向拝の蟇股や脇障子の彫刻などは古風で部材の風蝕が大きいことから,17世紀前半には現在の形態になったと考えられる。

かじゅうじ
勧修寺
真言宗の寺院。宸殿は延宝4年(1676)造営の明正院御所御対面所を元禄10年(1697)に移築したもので,上段の一の間は書院造の構成をる。本堂は寛文2年(1662)造営の仮皇居内侍所仮殿の旧材を用いて,同12年に潅頂道場として建築されたものである。

びしゃもんどう
毘沙門堂
天台宗の門跡寺院。本堂(寛文6年・1666)は徳川家綱の援助による。全体に漆塗や彩色,彫刻が施されており,唐門・仁王門とともに日光東照宮の諸建築に通じる雰囲気をもつ。境内の東寄りには17世紀後期造営の宸殿や使者の間・玄関など門跡の住居施設が並ぶ。

はちまんぐうほんでん
八幡宮本殿
当社は江戸時代までは勧修寺の鎮守社であった。現本殿は元禄8年(1695)に建築されたものであるが,向拝部分は享保年間(1716-1736)に改変されたようである。建物は桁行3間・梁行2間で切妻造,檜皮葺の屋根をのせる。市内に数少ない切妻造本殿として貴重。

ひむかいだいじんぐう
日向大神宮
内宮本殿・外宮本殿は,いずれも市内では数少ない神明造の建物で,両脇に棟持柱を建て,屋根に千木と堅魚木をのせる。共に18世紀後期頃の建物である。一連の建物が敷地の高低差を利用して配される境内構成はみごとで文化財環境保全地区に指定されている。

とうろうちょうかいしょ(ほうしょうやま)
燈籠町会所(保昌山)
当町は祇園祭のときに保昌山を出す町内である。町会所には現在,会所家(明治3年・1870),土蔵(文化5年・1808),稲荷大明神社が建つ。会所家2階の表の間は祭りの時にはお飾り場となる。格天井を張り,御神体を安置する中央部を折り上げて格式ある構成とする。

わちがいや
輪違屋
揚屋である角屋(重要文化財)と並び古い由緒をもつ島原の置屋で,元禄年間(1688-1704)創建と伝える。現在の建物は安政4年(1857)の再建で,明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になった。2階の客室の内,傘を張った襖をたてる傘の間と,土壁に赤や黒の押型の紅葉を散らす紅葉の間は立派。

ほんがんじでんどういん
本願寺伝道院
真宗信徒生命保険株式会社の社屋として明治45年(1912)に伊東忠太の設計により建築された。外観は古典様式に基づくが,開口部まわりや軒まわり,塔屋の形態などにサラセン様式,日本の伝統的な様式が用いられており,日本の近代建築の発展を知る上で貴重。

すぎもとけじゅうたく
杉本家住宅
当家は「奈良屋」の屋号で呉服店を営んでいた。現在の主屋は明治3年(1870)に上棟された。通り側の店舗部と奥の居室部を取合部でつなぐ表屋造形式で市内では最大規模の町家に属す。江戸時代の土蔵も残る大店の遺構として貴重で,祇園祭では当住宅は当町伯牙山のお飾り場となる。

きゅうにじょうえきしゃ
旧二条駅舎
京都鉄道株式会社の本社社屋兼駅舎として明治37年(1904)に建てられたが,現在はJR西日本の梅小路蒸気機関車館に移築されている。建物は本屋の両端に翼を張り出した工字型の平面で,本屋の中央を2階建としている。本屋1階を待合所,2階を事務室とし,正面向って右側の翼には壱貮等待合室と特等待合室が,反対側の翼には貨物係室・駅長室が置かれていた。伝統的な和風の意匠を基調とするが,柱頭飾りや窓などに洋風の意匠が取り入れられている。明治期に建築された本格的な和風駅舎としては現存する唯一の例である。

はたけじゅうたく
秦家住宅
表屋造形式の町家。店舗棟は明治2年(1869)頃の建築で,玄関棟と居住棟は多少遅れる。表構えは南側3間半を厨子2階建とし,2階に虫籠窓を開き,北側1間半は下屋庇付き平屋建とする。正面に屋根付きの大看板を作りつけ,伝統的商家の趣きを残す。登録部分は店舗及び玄関部である。

しまばらおおもん
島原大門
島原は寛永18年(1641)に設けられた我が国最初の公許の花街である。当時四周は堀と塀で囲まれ,門はその東辺北寄りに設けられていたが,明和3年(1766)に現在地に付け替えられた。現在の門は慶応3年(1867)に建てられた。控柱の上にも屋根をのせる高麗門形式である。

きゅうやなぎはらぎんこう
旧柳原銀行
旧柳原銀行は,明治40年上棟の銀行建築であったが,現在は地域の歴史的資料館として利用されている。建物は正面部を隅切りしたほぼ長方形の平面をもつ木造2階建で,寄棟造・桟瓦葺の屋根をのせる。外観は少し簡素だが,細部装飾は様式的に仕上げられており,1階の格天井と階段の手摺の意匠は優れている。地区内で資本金を集めて自らの地区の発展を図るために設立された銀行の建築遺構であり,この地区の歴史を知る上でも重要である。

ながえけじゅうたく
長江家住宅
長江家は代々呉服の卸を営んできた。主屋北棟は慶応4年(1868)の建築で,通り土間と居室を一つの屋根で覆う通りにわ形式である。主屋南棟は明治40年の建築で,表の店舗部と奥の居室部を玄関部でつないだ表屋造り形式である。2棟の主屋は,1階に格子窓や大戸を備えて通り庇を付け,2階にむしこ窓を開くなど,京町家の典型的な表構えをもつ。離れ座敷も明治40年の建物で,座敷と次の間からなる。化粧部屋は天窓の付いた6畳室で,浴室と脱衣室が接続する。旧蔵と新蔵はともに明治期に他所から移築された2階建ての土蔵である。

くらかけじんじゃ
倉掛神社本殿
寛文6年(1666)造営の本殿は,一間社春日造,こけら葺で,覆屋の中に建つ。京都市内の春日造本殿が概して装飾が少ないのに対し,この本殿は装飾が豊かであり,細部の意匠もその時代の特色を良くあらわしている。境内は文化財環境保全地区に指定されている。

ろくそんのおうじんじゃ
六孫王神社
当社は清和源氏の祖,源経基の霊廟に始まると伝える。現社殿は元禄14年(1701)に江戸幕府により再興された。本殿は類例の少ない切妻造で,拝殿と造合で結ばれた複合社殿である。唐門・回廊を含めた一連の社殿は江戸時代中期の中規模神社の形態を知るうえで貴重。

いまみやじんじゃほんでん
今宮神社本殿
当社は仁和寺の鎮守社であった。本殿は大型の一間社流造で,寛永21年(1644)に徳川家光の援助による仁和寺再興の一連で造営された。同じく仁和寺の鎮守社であった福王寺神社本殿(重要文化財)は春日造だが,造立年代は当社と同じで細部手法も共通する。

さいみょうじ
西明寺
本堂と表門は元禄13年(1700)に徳川綱吉の母桂昌院の寄進で建てられた。本堂内部は梁行に3分され,中央の内陣には後方に四天柱を建てて須弥壇に本尊を安置する。その両横の脇陣が外陣の役割を果たしており,真言宗寺院の本堂としては特異な平面である。

りんせんじ
臨川寺
臨済宗に属し,十刹の一であったが,明治期に建物は全て失われた。現在の建物はその名を継いだ三会院のもの。元和5年(1619)に方丈,同8年に昭堂,正保4年(1647)には中門が建てられた。開山堂は正面の昭堂と背面の享堂を相の間でつないだ複合建築で,客殿は六間取り方丈形式である。

ちょうふくじ
長福寺
臨済宗寺院で観応元年(1350)には勅願寺となった。仏殿(元禄8年・1695)は桁行3間・梁行3間の身舎の周囲に裳階がつく。方丈(寛文8年・1668)は六間取り方丈形式で,後列中央間の仏間に阿弥陀如来を安置する。鐘楼と表門も17世紀の建築。

にそんいん
二尊院
二尊院は天台宗の寺院である。本堂は江戸時代前期に建てられた六間取り方丈形式の大規模な建物で,入母屋造・銅板葺(もとは檜皮葺)の建物である。湛空廟は方1間・宝形造・本瓦葺の江戸時代前期の建物である。八社宮も大型の一間社流造で,江戸時代前期の造営である。惣門は慶長17年(1612)に造営された一間薬医門である。これらの建物は保存状況も良好であり,その寺観は四宗兼学寺院としての名残をとどめている。

ひらおかはちまんぐうほんでん
平岡八幡宮本殿
現本殿は文政9年(1826)に造営された。建物は桁行3間・梁間2間の大型の切妻造で,正面に1間の向拝を設ける。屋根は銅板葺だが,もとは檜皮葺であった。内部は前半部を広い1室とし,後半部は柱間ごとに3室に分割する。前半室の天井は格天井とし,格間には44面の花卉図(かきず)が描かれている。また正面の内法長押には熨斗に包まれた梅や椿が描かれるなど装飾性の強い空間になっている。市内に現存する数少ない切妻造本殿の一つである。

かわはらけじゅうたく
河原家住宅
当家は幕末には嵯峨大覚寺の御典医を務めていた。主屋は明暦3年(1657)の建築で,年代が確定する民家としては市内最古である。摂津北部から丹波地方にかけて分布する摂丹型に属し,正面寄りに鍵型に突出した角屋座敷は書院風。他に長屋門(元禄9年・1696)や土蔵2棟(共に江戸後期)も残る。

さいめいじんじゃ
斎明神社
天竜寺塔頭慈済院の旧境内地にあり,当社はその鎮守社であった。現在の本殿は明和8年(1771)に建てられた。京都市内には数少ない神明造本殿である。当初から覆屋の中に収められていたために保存状況も極めて良好である。拝殿は江戸時代末期の建物である。

くずじんじゃほんでん
九頭神社本殿
本殿は安永7年(1778)の造営である。こけら葺きの一間社流造で,屋根の正面に軒唐破風と千鳥破風を付け,縁の下を組物で飾る。装飾彫刻も多種にわたり見ごたえがある。早い時期から覆屋に収められていたようで,棟札や建地割図等とともに保存状態は良好である。保守的な様式の建物が多い京北地域には珍しく,構造や装飾が派手で凝った造りである。

じょうじゅうじ
淨住寺
本堂は元禄10年(1697)の造営で,その後方に位牌堂・開山堂・寿塔が一列に並ぶ。一連の建物は,京都市内には数少ない黄檗宗寺院を代表するもので,とくに開山堂と寿塔は黄檗宗寺院の特色をよく残している。境内は京都市文化財環境保全地区に指定されている。

たまむらけじゅうたく
玉村家住宅
近世山陰道の宿場町であった樫原に残る市内唯一の本陣遺構。現在の主屋は寛政9年(1797)類焼後の再建で,床上部は9室が3列に並び,西列最奥の6畳は床を一段上げて上段の間とし,二の間・三の間を続ける。この3室は書院造りの構成である。背後には土蔵(明和3年・1766)が残る。

おおはらのじんじゃ
大原野神社
本殿は,同規模・同形式の四棟の一間社春日造社殿であり,各社殿間は板塀で連結されている。身舎の平面は,170センチ四方の正方形である。擬宝珠に文政5年(1822)の銘があり,この頃に再建されたと考えられる。この本殿は,奈良の春日大社同様に一間社春日造の社殿が四棟並立する形式である。本殿前の中門・東西廊とともに,春日社系社殿の形態をよく伝えるものとして価値が高い。

じぞういんほうじょう
地蔵院方丈
臨済宗の寺院。方丈は貞享3年(1686)に延慶庵の方丈として建てられ,嘉永7年(1854)頃に仏間が増築された。内部は8畳3室と6畳の仏間が1列に並ぶ。竹林で囲まれた境内は京都市文化財環境保全地区に指定されている。

ふじのもりじんじゃ
藤森神社
本殿は宝暦5年(1755)に造営された皇居内侍所仮殿を,明和4年(1767)に移建したものとされる。本殿の前には弊殿・拝所・東西廊が建ち,これらが一体となった社殿構成は,市内の御霊社に共通する。境内は京都市文化財環境保全地区に指定されている。

かやおじんじゃ
萱尾神社本殿
当社は日野村の産土神で,江戸時代までは法界寺の鎮守社ともなっていた。現在の本殿は,慶安5年(1652)に造営されたもので,その後も屋根葺替や彩色等の修理が繰り返されてきた。建物は大型の一間社流造で,全体に丹塗り,胡粉塗,極彩色が施されている。

さいようじほんどう
西養寺本堂
真宗本願寺派に属する。本堂は元禄6年(1693)の上棟で,寄棟造の身舎の正面と両側面にもこしをまわす。平面は正面を吹放ちの広縁とし,内部は手前を外陣,奥を内陣(中央)・余間(両脇)とする。内陣・余間は床を高くして背面に仏壇を備える。真宗の一般寺院としては市内最古である。

あすかたじんじゃほんでん
飛鳥田神社本殿
当社は別雷・市杵島姫命を祭神とし,式内社飛鳥田神社に比定されている。本殿は江戸時代前期に造営されたとみられる古式な一間社流造で,軸部の円柱頂部に舟肘木を落としこんでその上に桁をのせるという特異な手法が採用されている。

あめのほひのみことじんじゃほんでん
天穂日命神社本殿
現在の本殿は天明3年(1783)の造営で,造営当時は天照太神と日吉山王を祭り,田中神社と呼ばれていた。身舎正面の柱間が2間という,京都市内にはほとんど例のない二間社流造形式の建物である。柱間は正面に蔀戸,東側面前方に板扉を構え,他は板壁である。内部は棟通りに板扉を設けて,手前の外陣と奥寄りの内陣に分ける。細部に装飾的要素が見られるが,彫刻がおとなしく,派手なものではない。かなり早い時期から覆屋に入っていたようで,保存状態は良好である。


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